石田波郷句集『風切』百句抄 綾部仁喜抽 (「泉」平成五年六月号より) 昭和十八年石田波郷は、俳句表現の散文的傾向、平板疎懶甘美なる句境、俳句の絶対的価値軽視の傾向の三つを矯正したいとして、俳句の韻文精神徹底を唱導した。また同年刊の句集『風切』後記においても、「ひたすらその格調を厳しくすべき」であると説き、「『風切』はそれを失はない努力に終始した句集」と自恃を示している。 波郷のこの時から今年は丁度五十年目に当たる。この間に俳句人口は激増し、時代も社会も大きく変わったが、現況を省みて、波郷の指摘した傾向との余りの符合に驚くのである。今こそ我々は再び原点を確認し、自らを正す時に来ていると思う。よって現在の視点による「風切百句」を掲げ、「泉」の諸君の熟読を要望する。(綾部仁喜) 春 初蝶やわが三十の袖袂 椎の木の遠く享けゐる落花かな 筍を三日くらひて飽かざりき 婆が手の蕨あをしも花曇 遠足や出羽の童に出羽の山 花冷の簷を雲ゆく別れかな 花冷の顔ばかりなり雲の中 花ちるや瑞々しきは出羽の国 茄子苗のしばらく乾く厨かな 夏 女来と帯纒き出づる百日紅 蠓を唇にあてたる獨言 椎若葉わが大足をかなしむ日 犬の尾のいまたくましや椎若葉 萬緑や子供の上に棕櫚の花 垂れ込めて腹くだしたる我鬼忌かな 鱒の子のすでに紅らむほととぎす 椎若葉この刻雀ばかりかな 深緑やわが掌に駒場町 葭雀二人にされてゐたりけり 六月の日の出かぐはし駒場町 田を植ゑて畷の子等となりにけり 牛かへり馬のこりたる代田かな 六月の雨さだめなき火桶かな 露草の露ひかりいづまことかな 家ひそかなるや硯を洗ひけり 硯の上の水迸れ思ひごと 若竹のひとり高しや軒雀 冷奴隣に灯先んじて 雀らも西日まみれやねぶの花 くらがりの合歓を知りゐる端居かな 百日紅近づかず道曲りけり 片陰や椎をこぼるる軒雀 胸の手や暁方は夏過ぎにけり 白髪を遊ばせゐるや田草取 濤音のある日なき日や百日紅 七夕の潮路や天草舟帰る 子供らに七夕すぎぬ天草採 いづくにもどとろく濤や盆仕度 鮎打つや天城に近くなりにけり 秋 秋めくと下駄履き出づる駒場駅 隣人の顳顬憂しや秋刀魚食ふ 法師蝉朝より飢のいきいきと 蟋蟀に覚めしや胸の手をほどく 鶏頭を犬や赤子の如く見る 菊の香やぎくりと懸る河童図 雁わたる三田に古りたる庇かな 萩叢や隣は子供多くして 熱の目にしばし草木や秋の暮 鵙の昼深大寺蕎麦なかりけり 縁談や夜の厠を萩打ちて 通夜の座の端更けにけり十三夜 芋の葉の八方むける日の出かな 朝顔は乾きそめたる芋の露 朝顔の紺のかなたの月日かな 吹きしぼるカンナの揚羽何駅ぞ 芋畑や赤城へいそぐ雲ばかり 葛咲くや嬬恋村の字いくつ 葛の雨鶴溜駅しぶきけり 浅間路に滞まりゐるや秋の風 雨つのるみんみん啼けよ千曲川 うつむきて歩く心や蓼の花 日曜の露おもたしや猫じやらし 露光る教師かこまれ来りけり 蹄鉄の打たれやまざる野分中 秋の夜の尺も鋏も更けにけり 名月や門の欅も武蔵ぶり 東京に麦飯うまし秋の風 十月や顳顬さやに秋刀魚食ふ 朝寒の嘆言を机拭きにけり 月待つや畦草の名のくさぐさを 一高へ径の傾く芋嵐 顔出せば鵙迸る野分かな 槇の空秋押移りゐたりけり 蓼科は被く雲かも冬隣 冬 なかぞらの鳩や大学枯れ果てぬ 寒椿つひに一日のふところ手 霜の道馬糞その他をうべなへり 買溜めて暮の女の肘光る 熱き茶を飲んで用なし寒雀 笹鳴や一高の松その笹生 常盤木の槇の黝さや寒了る すぐもどる西の河原やはつしぐれ 雪泥やかかるところに年つまり 年越の女中おとしと詣でけり 元日の殺生石のにほひかな 九年母や我孫子も雪となりにけり 雪の竹沼へ傾きはじめけり 浅間山空の左手に眠りけり 霜柱俳句は切字響きけり 風花やあとりの渡りちりぢりに 柊の指さされたる香かな 仏飯の麦めでたさよ初霰 子供らにいつまで鶴の凍つるかな 父と子や樏の跡混へつつ 夕月に湯屋開くなり近松忌 どの家の犬にも見られ年のくれ 三星の南廻りや寒の内 瑞の葉の三畝ばかりや寒の内 琅玕や一月沼の横たはり 篁や九年母いよよ現はれて