一月

先生のこゑよくとほる冬泉       

 平成二十七年一月十日師匠の綾部仁喜が亡くなった。八十五歳であった。その死去に際して詠んだ句である。先生が呼吸不全に陥り気道切開の手術を受けたのは平成十六年三月末。以来呼吸器が手放せず、声を発することのできぬ入院生活を送ることになった。そして十一年近い歳月を筆談で過ごされたのである。この日亡骸となった先生と対面を果たしたとき私には「先生のこゑ」がはっきりと聞こえてくるように思われた。呼吸器から解放された先生の顔が実に穏やかで安心に満ちたものであったからだ。先生には<沈黙を水音として冬泉><冬泉命終に声ありとせば>等々、「冬泉」を詠んだ句がある。掲出句を詠んだときには意識しなかったが、これら仁喜句が胸の奥にあっての一句だった、と今にして思う。先生が逝去されて丸七年。忌日とともに迎える一月は私にとって特別な月となった。

二月

先生の遺影と残る氷かな   

 やはり綾部仁喜先生に因む一句。先生が逝去されてから一か月後、「泉」の有志と旅に出た。北海道阿寒郡にある鶴居村の丹頂鶴とオホーツク海の流氷を見るのが目的だった。掲出句が成ったのは流氷観光の際乗った「おーろら号」船上。その日はちょうど先生の月命日でもあった。亡き先生にも流氷の景を見て頂きたいという思いから、携えてきた写真を荒々しい海風のなかに掲げた。「残る氷」は春の季語で「浮氷」ともいう。流氷とは違うが「遺影」となった一葉の写真と冬の名残のごとき「残る氷」が一筋の糸で繋がるように思われた。あたり一面、流氷に囲まれた光景はどこか幻想的で異世界に足を踏み入れたような瞬間でもあった。他にも<命日や流氷原を徒歩き>などの句を詠んだ。

三月

天空は音なかりけり山桜  

 第二句集名はこの句に拠る。吉野山の景として読まれることが多いが、それは作者にとって望外の喜びである。とはいえ一方では少々面映い。なぜなら吉野にはまだ行ったことがないからだ。一句の現場はわが家のベランダ。ひとり木椅子に座ってぼんやり空を眺めていてできた句である。山桜は自宅の前山にある。といっても他の雑木に紛れるように咲いていてなかなか気づく人はいないけれど。花が散るころになって、ようやくその存在を知る、といった具合だ。この日もまた花びらが散り始めたころだった。しんと静まり返った空間をストレートに述べた句であり、いささか心もとない思いで句会に出したことを覚えている。原句は<大空は音なかりけり山桜>。句会では「おおぞら」と読んだとき、濁点が気になるという助言を頂いた。その後、「天空」という一語に置き換えてしんとした空がどこまでも広がっていくように思われた。今にして山桜から賜った一句だったと切に思う。

四月

ねむりたる赤子のとほるさくらかな 

 『冬泉』所収。初出は平成二十六年(二〇一四)「俳句」六月号。特別作品二十一句の依頼を頂き何か所かの吟行を試みた。掲出句の吟行地は六義園。
 その頃、総合誌に発表する場合は仁喜先生に選をして頂くのが倣いだった。「〇、△、チョン」、あとは無印、と評価を頂くのだが、珍しく「◎」が付いて正直驚いた句である。というのも、乳母車に乗せられた赤子が眠ったまま枝垂桜の樹の影を抜けていくさまをストレートに詠んだ句であったから。先生の評価を得たことで思いきって発表することができた句である。その後、「俳句」九月号の「月評」では河原地英武氏が「『赤子』以外の平仮名表記と文語調の典雅な調べがこの句に独自の静けさと透明感を与え、ほの赤い微光に包まれた羊水を連想させる。われわれが生れる以前の世界を憧憬させる不思議な味の作品」と評して下さった。俳句は他者の選と読みによってかくも思いがけぬ世界へ広がるのか。選と読みの有難み、同時に怖さも教えてもらった句である。

五月

樟の木を夜風の渡る旧端午    

 『天空』所収。二〇〇七年作。泉の校正は初校、再校、と二度の校正を行う。当時、初校は各自(といっても石井那由太さんと私の二人)自宅で済ませ、再校は巣鴨にある竹中印刷で井上弘美さんも加わり三人で行っていた。手弁当、おやつ持参、ということもあって、お茶の時間ともなるとなんとも賑やか。遠慮なくなんでも言い合える場でもあった。そのうち校正だけで終わるのはもったいない、もう少し俳句談義をしようということになって勉強会を始めた。内容は席題句会と仁喜句鑑賞、批評がメイン。毎月泉誌上に掲載される仁喜作品十句を俎上にあれこれ意見を述べ合う。昼前から始まる校正が終るのが午後四時頃。その後会場を喫茶店などに移してニ、三時間。時にはきちせあやさんが会場を提供して下さることもあって四人での勉強会となった。掲出句はその会が果てた後、戸外に出たとき即座に成った。その時の席題が「旧端午」であったのかどうか。会場の名も失念した。だが、その敷地内にあった樟の大樹を吹き渡る風の音、心地よい風の感触は今も鮮明に覚えている。おそらく作句モードになっていなければ生まれなかった句である。但し「旧端午」は歳時記に登載されていない。

六月

たそがれをもて余しをる燕の子 

 『跣足』所収。平成七(一九九五)年作。作句現場は忘れたが、句会に出した際、石田勝彦選に入り、綾部仁喜選には入らなかった句である。当時の二人の先生のやり取りをはっきりと覚えている。
 仁喜「『もて余しをる』がどうもねえ……」
勝彦「とらない仁喜先生の気持ちもわかる」
仁喜「いや、採る人の気持ちもわかるのよ……」
という応酬があって、「悪くはないからとりあえずおいてもよい」と言われた句である。平成七年「泉」九月号では次席となり、仁喜評が載った。
 「子燕の育つ時分は黄昏が永い。親燕は夕方の虫を追うのに忙しくなかなか巣に戻って来ない。子燕は身を寄せあって夕空を眺めているばかりである。子燕の姿態とともに時候が適切に表出されている。『もて余しをる』は言葉としてはやや抽象的だが、表現されている内容は極めて具象的である」。
 あらためて「もて余しをる」の語は抽象的だと思う。が、一方で仁喜先生の評には私が燕の子を見たときの情景がありありと再現されている。そして、仁喜先生が「現場の句は強い」「実体験に基づく句は強い」と、ことあるごとに仰っていたことを思い出す。

七月 

その奥に屏風祭の人の影  
 
「俳句四季」二〇一〇年十月号が初出。『藤本美和子句集』所収。その年の七月十六、十七日、井上弘美さんの案内で初めて祇園祭に出かけた。十六日は宵山。「コンコンチキチン」という祇園囃子が流れる中で鉾町を巡り、長刀鉾、月鉾などを見学した。「屏風祭」は鉾町の各町家が秘蔵の屏風をお披露目してくれる祭。黄昏時、灯りが点り始めた家々の屏風の奥に人影が動いているのが見えた。暮らしを営む「人の影」だと思うと何とも懐かしく慕わしく思われた。祭が暮らしとともにある、当たり前かもしれないが、そんな印象を強くした。それもこれも京都に生まれ京都に育った弘美さんが案内してくれたお陰である。このほかにも<碧天に降つて菊水鉾の紙垂><炎天のかげりきたれる辻回し>等々の句を詠んだ。
 余談だが、この二日間の様子を入院中の仁喜先生に伝えると、先生は<山鉾の話きかせよ京がたみ><囃し過ぐ鉾の軋みは地の軋み>等々と詠まれた。


八月
  
母からのふみがらの数花木槿  

 母が亡くなって三年になる。父の死後十年近く故郷熊野の施設にお世話になった。その間、ひっきりなしに葉書が届いた。たわいない内容だったが、便りが届くのは母が元気な証しでもあった。地元の誰彼の消息を母の一葉で知ることもあったが、時々とっくに亡くなったはずの祖母が今でも生きていることになっていたりするので、受け取る側の私も妙な気分に襲われたものだ。いまも私の手許には当時の「母からのふみがら」が数百枚以上残る。
「花木槿」は好きな花だ。だが庭に植えたことはない。少し離れたところから眺める、どこか懐かしい花だ。
もっと以前、<底紅は井戸端の花母の花>とも詠んだ。「底紅」は「花木槿」のことである。ただ実家にも「花木槿」はなかった。ましてや「井戸」もなかった。何故こんな句が生れたのか、わからない。だが掲出句の「ふみがらの数」は事実であるし、「底紅」の濃い紅に母の面影が蘇るのも事実。どうやら木槿は私にとって、母や故郷に繋がる花のようだ。

九月

手折りたる草に音ある九月かな 

 誕生月ということもあるのだろう。九月は好きな月である。余談だが私の誕生日は石田波郷の師、五十崎古郷の忌日でもある。つまり<古郷忌はわが誕生日>なのだ。古郷が亡くなったのは昭和十年九月五日。波郷は忌日が巡ってくるたびに古郷を偲ぶ句を作っている。波郷が亡くなったのは昭和四十四年十一月二十一日。私の生年は昭和二十五年なので、私が十九歳になるまで古郷忌の句を作っていたことになる。
 偶然とはいえ成人を迎える日まで古郷忌を介し波郷先生とも少なからぬご縁があった、と考えると、恐れ多くも有難い。
 掲出句は二〇〇三年作。場面はどこであったか。何の草であったか。すっかり忘れたが、「音」だけは鮮明に覚えている。このかそけき「音」に秋が来たことを実感した。おそらく俳句に言い留めていなければ、忘れてしまう音であろうし、ささやかなできごとである。あらためて俳句は十七音ながら、おろそかならぬ形式だと思う。『天空』所収。