一月

先生のこゑよくとほる冬泉       

 平成二十七年一月十日師匠の綾部仁喜が亡くなった。八十五歳であった。その死去に際して詠んだ句である。先生が呼吸不全に陥り気道切開の手術を受けたのは平成十六年三月末。以来呼吸器が手放せず、声を発することのできぬ入院生活を送ることになった。そして十一年近い歳月を筆談で過ごされたのである。この日亡骸となった先生と対面を果たしたとき私には「先生のこゑ」がはっきりと聞こえてくるように思われた。呼吸器から解放された先生の顔が実に穏やかで安心に満ちたものであったからだ。先生には<沈黙を水音として冬泉><冬泉命終に声ありとせば>等々、「冬泉」を詠んだ句がある。掲出句を詠んだときには意識しなかったが、これら仁喜句が胸の奥にあっての一句だった、と今にして思う。先生が逝去されて丸七年。忌日とともに迎える一月は私にとって特別な月となった。

二月

先生の遺影と残る氷かな   

 やはり綾部仁喜先生に因む一句。先生が逝去されてから一か月後、「泉」の有志と旅に出た。北海道阿寒郡にある鶴居村の丹頂鶴とオホーツク海の流氷を見るのが目的だった。掲出句が成ったのは流氷観光の際乗った「おーろら号」船上。その日はちょうど先生の月命日でもあった。亡き先生にも流氷の景を見て頂きたいという思いから、携えてきた写真を荒々しい海風のなかに掲げた。「残る氷」は春の季語で「浮氷」ともいう。流氷とは違うが「遺影」となった一葉の写真と冬の名残のごとき「残る氷」が一筋の糸で繋がるように思われた。あたり一面、流氷に囲まれた光景はどこか幻想的で異世界に足を踏み入れたような瞬間でもあった。他にも<命日や流氷原を徒歩き>などの句を詠んだ。

三月

天空は音なかりけり山桜  

 第二句集名はこの句に拠る。吉野山の景として読まれることが多いが、それは作者にとって望外の喜びである。とはいえ一方では少々面映い。なぜなら吉野にはまだ行ったことがないからだ。一句の現場はわが家のベランダ。ひとり木椅子に座ってぼんやり空を眺めていてできた句である。山桜は自宅の前山にある。といっても他の雑木に紛れるように咲いていてなかなか気づく人はいないけれど。花が散るころになって、ようやくその存在を知る、といった具合だ。この日もまた花びらが散り始めたころだった。しんと静まり返った空間をストレートに述べた句であり、いささか心もとない思いで句会に出したことを覚えている。原句は<大空は音なかりけり山桜>。句会では「おおぞら」と読んだとき、濁点が気になるという助言を頂いた。その後、「天空」という一語に置き換えてしんとした空がどこまでも広がっていくように思われた。今にして山桜から賜った一句だったと切に思う。

四月

ねむりたる赤子のとほるさくらかな 

 『冬泉』所収。初出は平成二十六年(二〇一四)「俳句」六月号。特別作品二十一句の依頼を頂き何か所かの吟行を試みた。掲出句の吟行地は六義園。
 その頃、総合誌に発表する場合は仁喜先生に選をして頂くのが倣いだった。「〇、△、チョン」、あとは無印、と評価を頂くのだが、珍しく「◎」が付いて正直驚いた句である。というのも、乳母車に乗せられた赤子が眠ったまま枝垂桜の樹の影を抜けていくさまをストレートに詠んだ句であったから。先生の評価を得たことで思いきって発表することができた句である。その後、「俳句」九月号の「月評」では河原地英武氏が「『赤子』以外の平仮名表記と文語調の典雅な調べがこの句に独自の静けさと透明感を与え、ほの赤い微光に包まれた羊水を連想させる。われわれが生れる以前の世界を憧憬させる不思議な味の作品」と評して下さった。俳句は他者の選と読みによってかくも思いがけぬ世界へ広がるのか。選と読みの有難み、同時に怖さも教えてもらった句である。

五月

樟の木を夜風の渡る旧端午    

 『天空』所収。二〇〇七年作。泉の校正は初校、再校、と二度の校正を行う。当時、初校は各自(といっても石井那由太さんと私の二人)自宅で済ませ、再校は巣鴨にある竹中印刷で井上弘美さんも加わり三人で行っていた。手弁当、おやつ持参、ということもあって、お茶の時間ともなるとなんとも賑やか。遠慮なくなんでも言い合える場でもあった。そのうち校正だけで終わるのはもったいない、もう少し俳句談義をしようということになって勉強会を始めた。内容は席題句会と仁喜句鑑賞、批評がメイン。毎月泉誌上に掲載される仁喜作品十句を俎上にあれこれ意見を述べ合う。昼前から始まる校正が終るのが午後四時頃。その後会場を喫茶店などに移してニ、三時間。時にはきちせあやさんが会場を提供して下さることもあって四人での勉強会となった。掲出句はその会が果てた後、戸外に出たとき即座に成った。その時の席題が「旧端午」であったのかどうか。会場の名も失念した。だが、その敷地内にあった樟の大樹を吹き渡る風の音、心地よい風の感触は今も鮮明に覚えている。おそらく作句モードになっていなければ生まれなかった句である。但し「旧端午」は歳時記に登載されていない。

六月

たそがれをもて余しをる燕の子 

 『跣足』所収。平成七(一九九五)年作。作句現場は忘れたが、句会に出した際、石田勝彦選に入り、綾部仁喜選には入らなかった句である。当時の二人の先生のやり取りをはっきりと覚えている。
 仁喜「『もて余しをる』がどうもねえ……」
勝彦「とらない仁喜先生の気持ちもわかる」
仁喜「いや、採る人の気持ちもわかるのよ……」
という応酬があって、「悪くはないからとりあえずおいてもよい」と言われた句である。平成七年「泉」九月号では次席となり、仁喜評が載った。
 「子燕の育つ時分は黄昏が永い。親燕は夕方の虫を追うのに忙しくなかなか巣に戻って来ない。子燕は身を寄せあって夕空を眺めているばかりである。子燕の姿態とともに時候が適切に表出されている。『もて余しをる』は言葉としてはやや抽象的だが、表現されている内容は極めて具象的である」。
 あらためて「もて余しをる」の語は抽象的だと思う。が、一方で仁喜先生の評には私が燕の子を見たときの情景がありありと再現されている。そして、仁喜先生が「現場の句は強い」「実体験に基づく句は強い」と、ことあるごとに仰っていたことを思い出す。

七月 

その奥に屏風祭の人の影  
 
「俳句四季」二〇一〇年十月号が初出。『藤本美和子句集』所収。その年の七月十六、十七日、井上弘美さんの案内で初めて祇園祭に出かけた。十六日は宵山。「コンコンチキチン」という祇園囃子が流れる中で鉾町を巡り、長刀鉾、月鉾などを見学した。「屏風祭」は鉾町の各町家が秘蔵の屏風をお披露目してくれる祭。黄昏時、灯りが点り始めた家々の屏風の奥に人影が動いているのが見えた。暮らしを営む「人の影」だと思うと何とも懐かしく慕わしく思われた。祭が暮らしとともにある、当たり前かもしれないが、そんな印象を強くした。それもこれも京都に生まれ京都に育った弘美さんが案内してくれたお陰である。このほかにも<碧天に降つて菊水鉾の紙垂><炎天のかげりきたれる辻回し>等々の句を詠んだ。
 余談だが、この二日間の様子を入院中の仁喜先生に伝えると、先生は<山鉾の話きかせよ京がたみ><囃し過ぐ鉾の軋みは地の軋み>等々と詠まれた。

八月
  
母からのふみがらの数花木槿  

 母が亡くなって三年になる。父の死後十年近く故郷熊野の施設にお世話になった。その間、ひっきりなしに葉書が届いた。たわいない内容だったが、便りが届くのは母が元気な証しでもあった。地元の誰彼の消息を母の一葉で知ることもあったが、時々とっくに亡くなったはずの祖母が今でも生きていることになっていたりするので、受け取る側の私も妙な気分に襲われたものだ。いまも私の手許には当時の「母からのふみがら」が数百枚以上残る。
「花木槿」は好きな花だ。だが庭に植えたことはない。少し離れたところから眺める、どこか懐かしい花だ。
もっと以前、<底紅は井戸端の花母の花>とも詠んだ。「底紅」は「花木槿」のことである。ただ実家にも「花木槿」はなかった。ましてや「井戸」もなかった。何故こんな句が生れたのか、わからない。だが掲出句の「ふみがらの数」は事実であるし、「底紅」の濃い紅に母の面影が蘇るのも事実。どうやら木槿は私にとって、母や故郷に繋がる花のようだ。

九月

手折りたる草に音ある九月かな 

 誕生月ということもあるのだろう。九月は好きな月である。余談だが私の誕生日は石田波郷の師、五十崎古郷の忌日でもある。つまり<古郷忌はわが誕生日>なのだ。古郷が亡くなったのは昭和十年九月五日。波郷は忌日が巡ってくるたびに古郷を偲ぶ句を作っている。波郷が亡くなったのは昭和四十四年十一月二十一日。私の生年は昭和二十五年なので、私が十九歳になるまで古郷忌の句を作っていたことになる。
 偶然とはいえ成人を迎える日まで古郷忌を介し波郷先生とも少なからぬご縁があった、と考えると、恐れ多くも有難い。
 掲出句は二〇〇三年作。場面はどこであったか。何の草であったか。すっかり忘れたが、「音」だけは鮮明に覚えている。このかそけき「音」に秋が来たことを実感した。おそらく俳句に言い留めていなければ、忘れてしまう音であろうし、ささやかなできごとである。あらためて俳句は十七音ながら、おろそかならぬ形式だと思う。『天空』所収。

十月

波郷忌が近し石鎚山近し   

 平成二十二年十月、四国松山での作。実は松山の地を踏んだのはこの時が初めて。そして「櫟俳句会」の主宰、阪本謙二先生からのお誘いがなければ実現できなかったであろう貴重な出会いがあった旅である。松山といえば正岡子規、高浜虚子、中村草田男、石田波郷の生地、そして俳句の聖地である。
 松山に着いたその日、先生はすぐ松山市垣生にお住まいの波郷の妹さんお二人(真砂子さんとさわ江さん)に引き合わせて下さった。波郷の生家では植木屋さんが松手入れの最中。たまたま庭に出ていらしたさわ江さんが快く迎えて下さった。感激のあまり、実は何を話したのか覚えていないのだが、初対面というより懐かしい人との出会いを果たしたような不思議な感覚だったことは確かである。
 忌日を控えた波郷の生地松山、石鎚山の山容ははるばる波郷の生地にやってきたという思いを受け留めてくれるに十分であった。『藤本美和子句集』(「天空以後」)所収。

十一月

亀は浮き鯉は沈みて七五三   

 「ウエップ俳句通信」連載の超結社句会「新12番勝負」に出した句である。句会場は新宿御苑にある「ウエップ俳句通信」会議室。ホスト役を星野高士さんと私が務めている。私達二人がホスト役についたのは二〇一〇年三月(VOL・55号)なので、十三年目に突入したところである。毎回ゲストを四名迎え、総勢六名で句会をする。超結社なのでそれぞれ句風の違う作品と出会えるのが楽しみである。句会の後の二次会は酒席ということもあって談論風発、また一段と盛り上がる。掲出句について、この日ゲストにお迎えした行方克巳さんが「七五三」とは全く関係のない世界を描いて俳諧味がある、なかなかできない句だと言って褒めて下さった。句会の途次に立ち寄った高幡不動尊での嘱目の景である。平日にも関わらず七五三詣の親子の姿がちらほらと見えた。だが私には池の鯉や亀の動きの方に関心があった。七五三詣の姿はいかように詠んでも詠みつくされているように思えたからだ。一句として通じるかどうか、心もとない思いで出句しただけに行方さんの言葉は心底有難かった。そしてやはり現場に立って得た句の強さを思ったのだった。 二〇一五年作。『冬泉』所収。

十二月

裸木の誰もが触れたがるところ    

 
「裸木」は鎌倉にある極楽寺の百日紅である。石田勝彦先生指導の吟行句会(「天狗の会」)に参加した折の句。 
 訪れたのは冬。この百日紅、かなりの古木だったから、花の時期はさぞやと思われる。残念ながらまだ花を付けた姿は目にしていない。「誰もが触れたがるところ」は百日紅の幹のひとところの艶を詠んだ。おびんずる様のように誰もが触れ、なでたがためにできた艶である。裸木だからこそ、気がつけた艶でもあろう。百日紅の幹といえば、その名称からもわかるようにもともと滑らか、艶やかである。「くすぐりの木」の異名もあるくらいだから、百日紅もまた触られることを喜んでいるのかもしれない。何の苦労もなく呟くようにできた句であるが、勝彦先生が笑いながら「あんた、変な句を作るねえ……」と評して下さったこともあって、妙に忘れられない句となった。
平成九年(一九九七)作。第一句集『跣足』所収。

二〇二三年
 
一月

寒声を使ふ始めは低うして  美和子

 
 平成九年(一九九七)一月、東京例会に出句した作。この頃の東京例会は目黒にあった守屋教育会館で行われていた。この句は句会場での嘱目。詩吟のサークルの方々であろうか。同じ会場内の一室から吟詠の声が突如聞こえ始めたのである。朗々とした発声にふっと「寒声」という季語が閃いた。傍題に「寒声つかふ」という季語を見つけたときの喜びは今も忘れられない。感動が季語に直結する快感を知った句でもある。当時の小誌五月号では「泉集」の巻頭を頂戴した。仁喜評は「寒中の舞台」や「義太夫を語る」等々の場面を想定したもので、「始めは低うして」のフレーズは「押えが利いている」とも。俳句はまさに読み手によって完成する。『跣足』所収。
 
二月 

鍼打つて沈丁の香を近くせり

 月に二度、定期的に鍼灸治療に通っている。かれこれ十二年ほどになろうか。施術時間は一時間。前半三十分がマッサージ、後半は鍼を八本ほど打って頂く。主に首、肩、腰の治療であるが、五十肩もぎっくり腰もすべて鍼で治して頂いた。
 最初の頃は鍼治療が終わると眠くなったものだが、慣れてきたせいかこの頃はそうでもない。掲出句は取り合わせの句といえばそうだが、実感が強いせいか、作者としては一物仕立ての気分である。沈丁花の香りは真っ先に春の訪れを告げてくれる。鍼を打ってもらった日は血の巡りがよくなるせいか、五感もまた鋭くなる。
二〇一四年作。『冬泉』所収。
 

三月

五百ミリリットルの水鳥の恋

 二〇一一年、「俳句研究」夏号に「新作二二句」として発表の一句。掲出句の他にも
 列島の灯を落としたる蝌蚪の紐
 お彼岸の水溜めておく片手鍋
などがある。背景にあるのはこの年の三月十一日に起きた東日本大震災。福島にある原発の建屋が崩壊し放射性物質の一部が大気中に放出、首都圏の水道水からも放射性物質が検出された。
 店頭からは生活必需品とともに、飲料水が消えた。それまで当然の如く口にしていた水が飲めない。ようやく手にした「五百ミリリットル」のペットボトルの「水」が何より有難かった。
厳しい現実に直面するなかで目にした鳥の姿、耳にした鳥の声。震災以前と変わらず、目の前にいる鳥達の姿に一刻心が和んだ。「五百ミリリットルの水」というモノと季語「鳥の恋」。取り合わせた二物の間に火花が飛び散っているか。ともあれ、清冽な水の輝きが見えてくるようなら嬉しい。
 その後、この句は浜島書店の高校生向けの『最新国語便覧』に「取り合わせ」の一句として採用されたこともあって、いっそう忘れ難い句となった。 
 そういえば、この年は「俳句研究」が休刊となるなど、何かと変化の大きかった年でもある。 
   現代俳句文庫『藤本美和子句集』所収。

四月

花時の赤子の爪を切りにけり

 仁喜先生は「孫俳句」に対して厳しかった。孫といえば可愛い、「目の中に入れても痛くない」という成句がそのまま当てはまってしまうほど、甘くなるからだろう。だから孫が産まれたとき孫俳句は決して詠むまい、と思っていた節がある。だが、実際孫が産まれてみると<春満月生後一日目の赤子><嬰児の臍のあたりの日永かな>等々、無理をすることなく一句ができていた。前書をつけなかったのは孫ではなく「赤子」というひとりの子どもとして詠みたい、読んでもらいたいという思いがあったからだ。
 赤ん坊の爪を切るには専用の爪切り鋏を使う。折から花時。生後間もない赤子の爪は桜の花びらのようにうすうすと透き通っていた。孫俳句にはとりわけ厳しかった仁喜先生から「季語の花時が効いている」という選後評も頂けた思い出の一句。今春その孫も十六歳となった。
       二〇〇七年作。『天空』所収。

五月

菖蒲湯に一日の家事終はりけり  

 「実感」ということを考えるとき思い出す一句である。「泉」に入会する以前、五年ほど綾部仁喜先生指導の俳句サークル「藍の会」に所属していた。原稿用紙に毎月十句ほどまとめ、先生の添削指導を受けるというのがサークルのならいでもあった。昭和六十年、そのサークルに入って、初めて先生に見て頂いた句稿の中の一句である。
まもなく先生から返却された句稿には朱筆で「この句稿の中では一番実感があります」と記されていた。もちろんこの評の裏には「他の句に比べて」という意味があってのこと。とはいえ、何の衒いもなく思ったままをストレートにまとめた一句に「実感」という評言が頂けたことに得も言われぬ喜びを感じた。ひとりの主婦としての平凡な感慨に共感して頂けたという思いがしたからである。
 以来、わが眼に見えるもの、わが耳に聞こえるもの、つまりわが五感が感じ取り、捉えたものをなによりも大事に、忠実に表現したいと思っている。どんなに拙くとも自身の言葉として発した一語には「実感」が伴う。読み手の心にも届く。作者と読者を繋ぐ実感に裏打ちされた一語。句稿を介してではあったが、先生との初めての出会いを通して教わったこととして忘れ難い。
       昭和六十年作。句集未収録。

六月

亡骸の父の頤梅雨満月

 父が亡くなったのは二〇〇七年(平成一九年)六月二十九日。今年は十七回忌である。生きていれば今年九十七歳を迎えているはずだ。黄疸症状が出て末期の胆管癌であることを知らされたのは亡くなる三か月前。三か月間、父を看取ってくれたのは弟妹である。私はといえば、ときたま父の顔を見に帰るだけ……。まことに親不孝な娘である。
 癌であったので少しは痩せていたものの、さほど衰えてもおらず亡くなったという現実が受けとめられなかった。ただ傍らには父が亡くなる三日前までつけていた日記、というか手帳が山のように残っていた。その日記が記されないままそこにあることが父の死を語っていた。
 今も実家には日記は残されたままあるはずだ。一七回忌の今年、父の命日にはせめて父の好きだった日本酒で家族と献杯をしようと思う。二〇〇七年作。『天空』所収。

七月

天上の仰がれてゐる蓮見かな

 平成十六年の夏、舟を仕立て手賀沼で蓮見をした折の句である。当時、この舟の手配を始め吟行の段どりをすべて整えてくださったのはきちせあやさんである。陸上での蓮見とは違って、舟に揺られながら群生した蓮のなかに分け入ってゆく水上での蓮見。蓮の思いがけない丈に圧倒されながら、蓮の花を真下から仰ぎ見る感覚はなんとも言い表わし難い。視界はといえば真っ青な空のみ。蓮の花と葉と空と。これ以外のものが一切ない空間で蓮はまた別の姿を見せてくれたのだった。この時、「青天」や「大空」ではなく、「天上」という一語を授かったのもふと「蓮華往生」などという仏教用語が頭を過ぎったからかもしれない。他にも<水よりも低きに坐り蓮見舟><蓮剪つて蓮の全長したたらす>などと詠んだ。「蓮剪つて」は原句の「蓮剪り蓮の丈をしたたらす」を仁喜先生が添削して下さったもの。「蓮剪つて」の方が心地よい、「丈」はもの足りないとも助言して下さった。このように俳句を作っては病室で先生に指導を受けていた時間、あやさんはじめ、仲間と吟行に繰り出していた時代が懐かしい。 
            『天空』所収

八月

今朝秋の山風がくる鯉の髭 

 初出は総合誌「俳句研究」平成十七年十一月号である。残念ながら同誌は休刊となってしまったが、当時は毎号「3か月連続競詠」という企画があった。そのページに十月号から十二月号まで作品発表の機会を頂いたのである。競詠のお相手は恐れ多くも大峯あきら氏。大峯氏の名前を聞いただけで緊張した。しかも毎月二十句、計六十句の発表である。なにしろふだんは毎月小誌に投句する十句をまとめる程度しか作っていないのだから、甚だ難行でもあった。この依頼を受けてから三か月間は車で五分ほどのところにある片倉城址公園によく出かけた。ひとり吟行である。通いなれた場所でもあり、「鯉」は私の友人のようなもの。なかなか一句には仕立て難いが困ったときは助けてくれる有難い存在である。この公園は城跡を囲むように雑木林があり、山水も湧いている。そのせいか市街地より幾分か涼しい。よく知られた<秋来ぬと目にはさやかに見えねども>ではないが、風はまさに「今朝秋」に違わぬものであった。「今朝秋の山風がくる」、これはそのときの印象をストレートに述べただけのフレーズ。下五の「鯉」もまた平凡な素材だが、「髭」というモノを提示することで、パターン化を免れたか、と思っている。      『天空』所収

九月

虫籠の戸の開いてゐる朝の雨 

 この虫籠、どこに置かれていてもいいと思う。その辺りの事情をどう読むか、は読み手の自由である。いったん作者の手を離れた句は作者のものであって作者のものではない。そういう観点においても自解はなるべく避けたい、と常々思っているのだが……。といっても自解そのものを否定するつもりはない。自解からその人となりを知る場合もあるのだから。そういう自解となっていることが筆者の願望でもある。
 この虫籠、草っぱらに置かれたままで虫籠には虫もいない。空っぽだった。誰かが置き忘れていったのか、捨てられたのかわからない。誰かの所有していたはずの虫籠が雨の中で濡れている。ただそれだけのことだ。一切のことを捨象し、ものに焦点を定め描写する手法が俳句の醍醐味であると思っている。この一句が手法に叶っているかどうかはともかく、ただひとつのもの=虫籠を提示していることだけは確かである。とるに足らぬささやかなことではあるが、虫籠の戸の向こうに多様な広がりをもつ世界が広がっているとしたら嬉しい。俳句でしか言えぬことを虫籠の存在が示してくれている。今はそんな気がしている。
二〇〇五年作。『天空』所収

十月

木の国の木の香なりけり茸飯 

香り松茸、味占地とはいうが、「茸飯」はやはり「松茸」に限る。とはいえどかなり高価なものだからそうやすやすとは手に入らない代物になってしまった。という訳でこの頃のわが家の「茸飯」といえばもっぱら占地である。
 ただ掲出句の「木の国の木の香なりけり」と詠んだ心中にあるのはやはり松茸である。小学生の頃だったか、クラスをあげて茸狩りに行った覚えがある。山師の方に茸の種類や茸の生えそうな場所を教えてもらった。そして松茸のありかはそう簡単には教えてもらえないこともそのとき知った。だが松茸はかなり豊富だったはずである。というのも、子供ながらに炭火であぶった松茸を裂いては生醤油かなにかでふんだんに食べた記憶があるからだ。今思えばずいぶん贅沢なことである。掲出句が偶然ながら、「き」の頭韻を踏んでいるのも木の国に生れ育った、幼時の頃の原体験がどこかに働いているのかもしれない。
 二〇〇七年作。『天空』所収。

十一月

白菜を干したる中華料理店

 仁喜門に入って九年目、「この作者、何でもないところで俳句が作れるようになってきている」という仁喜評を頂いた句である。このコーナーの自解に採り上げる句はあまり苦労なく、即座に成った句が多い。私の場合、俳句を作ろうと思って身構えるとできない。かと言って、俳句とまったく無縁の生活のなかでもできない。だが考えてみればこの頃は、和知喜八門の友人と共に週に一度は必ず吟行に出かけていた頃。常に俳句モードに近い状態であったことだけは確かである。
 掲出句はどういうときであったか。きっかけとなったそのときの気分は思い出せないが、場所とその時の光景だけは鮮明に思い出すことができる。最寄り駅でもあるJR横浜線の片倉駅から五分ほど歩いたところに小さな拉麺店があった。その店に入ったことはない。ある日、その店先に何株かの白菜が干されていたのを見かけた。大方キムチにでもするのだろう。店の前を通ることは何度かあったが白菜を干している景は初めて見た。初めて目にした光景だけに私の心も一瞬動いたに違いない。見たままの一句はまるで呟きにも近い。今はその拉麺店もない。いつ頃閉店したのかも知らない。仮にこの句を作っていなかったら、私の記憶にも残らなかったであろう当時の光景が蘇る。
 こうなると季語とともにある、日常の暮らしの断片が限りなく愛おしいものに思えてくる。
        一九九四年作。『跣足』所収。

十二月

鳥を見にゆく歳晩の列車かな  

 『冬泉』には「季語や季語以外の鳥が頻出する」という指摘をして下さったのは櫂未知子さん。そのように言われて初めて気がついた。確かに多い。鴉、鷗、翡翠、海鳥、鵙、鳶、鶺鴒、青鷺、鳰、鶴、白鷺、白鳥、夏雲雀、三十三才、寒雁、鵯、鷭の子、行々子、帰燕、鵜、鳩、鶏などざっと二十二種類ほど。意外だったのは日常よく見かける雀や四十雀、鶯などはない。詠んではいるが句集にまとめる段階で落としたのだろう。
 鳥の名前を即座に言い当てる人に憧れる。そんな気分も手伝って地元の探鳥会に入会した。二百名ほどが所属する会にはやはり達人がいる。大鷹、花鶏、エナガ、田雲雀等々。これらの鳥が地元で見られることも知った。だが、相変わらず鳥の名前は覚えられないままである。(会に名前を連ねているだけで探鳥会に参加するのは年に一度ほどなのだから当たり前である)。
 掲出句は二〇一六年のまさに歳晩、友人と宮城県の伊豆沼へ出かけた折の句。伊豆沼は渡り鳥、ことにマガンの越冬地として知られる。ピーク時には十二万羽ぐらいのマガンが飛来するとか。早朝、日の出とともに餌場を求めて近隣の田んぼへ飛び立つ雁の姿に圧倒された。初出は「WEP俳句通信」(Vol96)。『冬泉』所収。