2024年
一月
一枚の仏足石の氷かな 美和子
かつて毎日新聞社が発行していた総合誌「俳句あるふぁ」には「俳句が生まれる現場」と称する連載企画があった。隔月刊の雑誌に俳人が登場、それぞれの作句フィールドを紹介、案内しつつ吟行句を十句ほど作るというページである。吟行には「俳句あるふぁ」編集部のスタッフ赤田美砂緒さんとカメラマンの野澤勝さんが同行してくれた。
私の吟行地は通い慣れている絹の道と片倉城址公園、高幡不動尊の三か所。取材はほぼ一日がかりだったが同行の赤田さんは以前仁喜先生の取材時にお会いしていたこともあってあまり緊張することもなく楽しく吟行ができた。
吟行日は二〇一四年一月十日。最強の寒波が襲来した日だ。掲出句は最初に訪れた高幡不動尊での嘱目である。大日堂の前に設えられた仏足石には氷が張っていた。たしか前夜雨が降っていたように思う。仏足石に溜った雨水が寒波襲来のおかげでみごとに結氷。完璧な仏足石形の氷ができていたのだった。これぞまさに天上からの贈り物だと思った。雑誌にもその氷を持ち上げる瞬間を捉えた一葉が載っている。発表時には
持ち上げて仏足石の氷かな
としたが、句集には掲出句の形にあらためた。即座にできた句にはそれなりの実感があるのだが、「一枚」というモノにこだわることで「仏足石の氷」の透明感が出たように思う。 『冬泉』所収
二月
断層も島の椿も無垢のいろ 美和子
「断層」は伊豆大島の南西部、大島一周道路を走っていると現れる「地層切断面」である。高さ24メートル、長さ630メートルもあるという。1万5千年にも及ぶ歳月のなかで繰り返されてきた噴火の歴史が刻まれた地層である。
私が訪れたのは椿祭りの確か初日、思い立って調布飛行場から大島直行便に乗って出かけた。大島滞在時間は五、六時間というタイトなスケジュールで日帰り吟行を試みたのだった。
椿は未だ三分咲きという情報だったせいか、観光客もさほど多くはなかった。ちらほらとほころび始めた紅椿の楚々とした風情と島を周遊中に突如あらわれた断層のみごとなまでの造形の美しさがなんとも印象的だった。咄嗟に「無垢のいろ」という言葉が浮かんだ。何の迷いもなく、確かな手応えを感じた一語はすとんと胸に落ちる。安心できる。
島の椿に魅せられた私は一週間後、ふたたび大島を訪れた。思いがけず春の雪が舞った。
溶岩原の濡れはじめたる春の雪
ともに初出は2017年「俳句」4月号、特別作品21句。このときの21句は全て伊豆大島のものでまとめ、タイトルも「断層」とした。『冬泉』所収。
三月
はるかなるものの映りて水温む 美和子
この句ができたきっかけは覚えているが経緯は定かではない。句会に出したかどうか……。それさえおぼつかない。
平成十八年六月号の「泉」に掲載しているから、仁喜先生は既に入院中。そのころの句会はすべて合評形式の頃である。何も覚えていないくらいだから、句会に出したにせよ、話題にのぼることさえなかったのだろう。
眼前の「もの」に託して詠むことを教わった私としてはかなりの冒険をしたつもり。「はるかなるもの」など、抽象極まりないフレーズだからだ。ただ当時の私としては今目にしているもの、水面に映っているものを具体的に述べただけではつまらない、と思えた。つまり平凡極まりない。私でなくとも誰もが詠める景であろう。
このような場面で私がきまって思い出すのは、虚子の<天日のうつりて暗し蝌蚪の水>という句である。「暗し」の一語の凄み。作者の肝の据わった一語は読み手の心にもずしんと響く。
「はるかなるもの」は読み手にどのように伝わるか。ささやかな私の思いに仁喜先生が「佳句鑑賞」のなかでみごとに応えて下さった。一部を引用させて頂こう。
「この『はるかなるもの』に何か具体的な実体をさぐる必要はない。物象の時空を超える茫洋たる影の如きもの、而してその存在はこの上なく確かなものの謂である」。
2006年作。『天空』所収。
四月
イースターホリデーにして橋の上
2019年4月21日、日曜日、イタリアでの作。この年、4月15日から24日までイタリアに行った。「ウエップ俳句通信」の大崎紀夫編集長率いる超結社イタリア吟行に参加したのである。
偶々イースターホリデーと重なったこともあり、観光客が多いのには少々閉口した。が、それにも増して旅の開放感の方が大きかった、といえる。
なかでも復活祭の行事の一つでもあり、その年の豊凶を占うというドゥオーモでの「スコッピオ・デル・カッロ」等々の場面に遭遇できたのは、貴重な体験だった。
掲出句は「ウエップ俳句通信」(VOL・110)に発表したもので、橋はフィレンツェのアルノ川に架かるポンテ・ヴェッキオ。ほとんど無内容にも等しい一句だが、イタリア吟行を前提に読むとヴェッキオ橋を想像してもらえるのではないか。いつも思うのだが、現場に身をおくことで得られた一句というのは作者自身になにより安心感がある。この一句には「イースターホリデー」という時節の、キリストの復活を願う異国特有の熱気がすっぽり封じ込められたような気がして自分でも好きな句である。
この他にも復活祭に関わるあらゆる季語に挑戦した。
パーゴラの下の木椅子や四旬節
ひと本の聖土曜日の月桂樹
等々、この吟行で得た14句を句集に収録した。
『冬泉』所収
五月
筒鳥のこゑ溜まりくる朝の月
「泉」(平成十七年七月号)に発表。泉の有志と瑞牆山を訪れたときのもの。瑞牆山は山梨県にある日本百名山のひとつである。奇岩が空に聳えているような岩山といったらいいだろうか。山麓にきちせあやさんが贔屓にしている民宿があり、宿泊。早朝、麓の山中で初めて「筒鳥のこゑ」を聞くことが叶った。
同行の井上弘美さんが過分に評価してくれたこともあって、「筒鳥のこゑ」とともに忘れ難い句となった。また瑞牆山といえば、
瑞牆山を空に置きたる菫かな 勝彦
瑞牆山のふしぎな春を惜しみけり 皓史
などを思い出す。瑞牆山がとりわけ親しい山になったのも「筒鳥のこゑ」のおかげである。
「泉」に掲載時には仁喜先生が「石田波郷の抒情にも通うものを感じて懐かしくなった」「現代では抒情が軽く扱われるきらいがあるが、抒情は詩の原点である」「その場その時の心に余程私を去らないとできない」等々、懇ろな評を添えて下さった。
一句はまさに読み手によって育てられ、磨かれ、残ってゆくものだと思う。一人の実作者としてよき読者でもありたい。
『天空』所収
六月
ほうたるにほうたるが寄る草の裏
初出は二〇一一年「俳句」九月号。「鞍馬」というタイトルをつけ十六句発表した。このほかにも<蛍火の擦れ違ふときはじきあふ>など、蛍の句を五句ほど詠んでいる。
掲出句、実は句集にも残していない。地味な句、という理由で自選から外したのだった。だが下五の「草の裏」を仁喜先生が評価して下さったことだけは覚えている。
総合誌に発表する句はすべて仁喜先生に目を通して頂いていた幸福な時代。当時の句稿には入院中の先生の朱筆が今も鮮やかに残る。つまらない句に対しては何のコメントもない。だが偶に平凡だと思っていた句が評価されることもある。掲出句もそんな一句である。見たままを叙したに過ぎない、と思っていたからだ。
掲出句は下五「草の裏」に対して「最後まで目を離さなかった」と一言書いて下さった。
見ること、凝視すること、写生に繋がる一語を思うとき思い出す一句である。
七月
はればれと佐渡の暮れゆく跣足かな
第一句集名もこの句に由来する、忘れがたい句である。平成七年七月末。新潟県柏崎市に単身赴任をした夫を訪ねた時の一句。当時大学生だった長女、高校生の長男とともに赴任地を訪れた。ほかのことはすっかり忘れてしまったが、鯨波海岸から佐渡を遠望した夕刻の景は今でもはっきりと蘇る。岩場に跣足で立ったときの感触もまた鮮明に残る。残念ながら当時の写真は一枚もない。にもかかわらず一葉の写真をみるような思いで眺める一句でもある。
句会には<むらさきに佐渡の暮れゆく跣足かな>として出句。仁喜、勝彦両先生が、「むらさきに、じゃなあ……」と口を揃えておっしゃった。「むらさき」と「暮れる」という発想が付きすぎであること、「はればれと」という一語にたどりつくまでの苦労とたどりついたときの喜び等々、さまざまなことを教わった句である。誌上での仁喜先生の評は「この頃は日本海の最も安定している時期である。佐渡遠望の句はかなりあるが、このような安定期のものは余り多くない。平凡な印象になりやすいからであろう。『はればれと』に季節と重なる心情の安定感が見える」。この評もまたこの一句への思いを深くとどめるきっかけとなった。 平成七年作。『跣足』所収。
八月
熊野川見ゆる盆燈籠の数
回想句である。故郷は和歌山県熊野川町。私が子供の頃は、実家から一キロメートルほど離れた熊野川の水面がうすうす光りながら流れているのが見えた。今ではあたりの木々が茂ってまったく見えない。
実家の南側の窓からぼおっと熊野川を見たり、山々を見たり、空を仰いだり、ひとりで空想にふけるのが好きだった。因みに私を空想の世界に引き入れてくれた山の名は果無山。この果無山に雲がかかると必ず雨が降った。
掲出句は新盆を迎える家々の景である。当時、田舎では新盆を迎える家々には手向けの白提灯を贈るのが倣いであった。印象に残るこの景は川筋にある旧家で熊野川を見下ろすような高台にあった。軒には集落の住民から贈られたかなりの数の、真っ白な盆燈籠が川風に揺れているのが見えた。
この盆燈籠、送り盆の際には精霊舟に飾られる。精霊舟もかなり大がかりなもので全長数メートルほど。地域の住民らによって仕立てられる。その後、熊野川から精霊さまとともに黄泉の世界に送られるのである。私が最後に見送った精霊舟はかれこれ四十年ほど前。叔父が身罷った年である。
平成十八(二〇〇六)年作。『天空』所収。
九月
とある日の子規の献立秋深む
九月十九日、今日が正岡子規の忌日。あいにくの天候で月は見えないが虚子の<子規逝くや十七日の月明に>と詠んだ句が思われる。
ともかく健啖家として知られる子規。『仰臥漫録』に書かれている献立の内容に驚く。三食のほかに、「煎餅菓子パンなど十個ばかり」「昼飯後梨二つ」「夕食後梨一つ」……。これは明治三十四年九月二日の献立。亡くなる前年なので子規は三十四歳。年齢を考えるとむべなるかな……とも思うが、この旺盛な食欲はすごい。根岸にある子規庵での作で、他には<鶏頭に糸瓜に触れて忌が近し><大いなる糸瓜の影の小鳥籠>などの句を作った。「とある日の」というフレーズは呟くようにすんなりと口にのぼった語だ。それもこれも子規庵の畳に座り、子規の写真や机に囲まれ、子規の存在が身近に感じられたからであろう。当時の「俳句研究」(二〇〇四・一二月号)の「俊英競詠三〇句」に「深秋」と題して発表したなかの一句。この句について、石田郷子さんが「『どんなときでも平気で生きていること』。たしか子規はそんなことを言っていた。強いというか、柔軟な精神。日記につけたり絵に描いたり、その結果亡くなって時が過ぎても、子規のとある日の献立の記録が現在の私たちの心を癒してくれる。そのことに気付かせてくれる一句」(要約)と評してくれた。子規没後百二十年余り、今も子規は生き続けている。二〇〇四年作。『天空』所収。
十月
やや寒の色が似合ふと言はれても
言いさしたまま、どこか口ごもったような、いかにも思わせぶりな句である。好きな色は「黒」。他に紺、グレー、緑、この頃は白も好きだ。というわけで手持ちの服はほとんどこの類の色。つまり寒色系である。「やや寒の色」という発想は単純に好みの色彩から得たもの。おそらく誰かに「寒色系の服が多いね」「似合うね」とでも言われたか。作者としては半ば照れ隠しの気分がこのようないいさした物言いにあらわれたというべきか。叙景句の、しかもきっぱりとした句の多い私にとっては珍しい作風だが、案外好きな句である。
平成十三年「泉」一月号では仁喜先生が次のように鑑賞してくれている。
「俳句は齢相応がよい。以前の初心者は若者でも老先輩の真似をして背伸びしたものだが、近年は若者がいかにも若者らしい句を作るようになった。作者の年齢より老けづくりの句は老先輩に受けがよいが、或る年齢以後は若づくりの方が俳人寿命が長持ちするようである。……それが『似合ふと言はれても』」。
当時、年齢のわりに老成した句が多いと指摘されることの多かった私へのアドバイスでもあったのだろう。もっともっと「若づくり」の句を作らねば……。
二〇〇一年作。『天空』所収。
十一月
柊の花近づけばこぼれけり
「打坐即刻のうた」はよく知られた波郷の言葉。石川桂郎は波郷の句を評して「泛ぶ俳句の典型」とも言っている。ただしその裏には「松山時代の少年期から、作る俳句のきびしい修練を経た上の、更に天才的作句力を知る上のこと、俳壇における特異な作家としての話」ともしているが……。桂郎のことば「泛ぶ俳句」とは即ち「打坐即刻の句」ともいえるだろう。即座にできた句には無理がない、と思っている。桂郎のことばの紹介の後では少々おこがましいが掲出句も「柊の花」に気づき、近づいた瞬間にできた。なんの技もない。見たまま、感じたままの句である。場所は調布市仙川。ふらんす堂に用があり出かけた時である。「柊の花」といえば素十の<柊の花一本の香かな>が最も好きな句である。ひそやかに咲く柊の花の存在が確か。清潔感がある。素十句のさりげなさ。素十の句などもふっと「泛ぶ」ようにできたのだろう。 二〇一九年作。『冬泉』所収。