2023年
 
一月

寒声を使ふ始めは低うして  美和子

 
 平成九年(一九九七)一月、東京例会に出句した作。この頃の東京例会は目黒にあった守屋教育会館で行われていた。この句は句会場での嘱目。詩吟のサークルの方々であろうか。同じ会場内の一室から吟詠の声が突如聞こえ始めたのである。朗々とした発声にふっと「寒声」という季語が閃いた。傍題に「寒声つかふ」という季語を見つけたときの喜びは今も忘れられない。感動が季語に直結する快感を知った句でもある。当時の小誌五月号では「泉集」の巻頭を頂戴した。仁喜評は「寒中の舞台」や「義太夫を語る」等々の場面を想定したもので、「始めは低うして」のフレーズは「押えが利いている」とも。俳句はまさに読み手によって完成する。『跣足』所収。
 
二月 

鍼打つて沈丁の香を近くせり

 月に二度、定期的に鍼灸治療に通っている。かれこれ十二年ほどになろうか。施術時間は一時間。前半三十分がマッサージ、後半は鍼を八本ほど打って頂く。主に首、肩、腰の治療であるが、五十肩もぎっくり腰もすべて鍼で治して頂いた。
 最初の頃は鍼治療が終わると眠くなったものだが、慣れてきたせいかこの頃はそうでもない。掲出句は取り合わせの句といえばそうだが、実感が強いせいか、作者としては一物仕立ての気分である。沈丁花の香りは真っ先に春の訪れを告げてくれる。鍼を打ってもらった日は血の巡りがよくなるせいか、五感もまた鋭くなる。
二〇一四年作。『冬泉』所収。
 

三月

五百ミリリットルの水鳥の恋

 二〇一一年、「俳句研究」夏号に「新作二二句」として発表の一句。掲出句の他にも
 列島の灯を落としたる蝌蚪の紐
 お彼岸の水溜めておく片手鍋
などがある。背景にあるのはこの年の三月十一日に起きた東日本大震災。福島にある原発の建屋が崩壊し放射性物質の一部が大気中に放出、首都圏の水道水からも放射性物質が検出された。
 店頭からは生活必需品とともに、飲料水が消えた。それまで当然の如く口にしていた水が飲めない。ようやく手にした「五百ミリリットル」のペットボトルの「水」が何より有難かった。
厳しい現実に直面するなかで目にした鳥の姿、耳にした鳥の声。震災以前と変わらず、目の前にいる鳥達の姿に一刻心が和んだ。「五百ミリリットルの水」というモノと季語「鳥の恋」。取り合わせた二物の間に火花が飛び散っているか。ともあれ、清冽な水の輝きが見えてくるようなら嬉しい。
 その後、この句は浜島書店の高校生向けの『最新国語便覧』に「取り合わせ」の一句として採用されたこともあって、いっそう忘れ難い句となった。 
 そういえば、この年は「俳句研究」が休刊となるなど、何かと変化の大きかった年でもある。 
   現代俳句文庫『藤本美和子句集』所収。

四月

花時の赤子の爪を切りにけり

 仁喜先生は「孫俳句」に対して厳しかった。孫といえば可愛い、「目の中に入れても痛くない」という成句がそのまま当てはまってしまうほど、甘くなるからだろう。だから孫が産まれたとき孫俳句は決して詠むまい、と思っていた節がある。だが、実際孫が産まれてみると<春満月生後一日目の赤子><嬰児の臍のあたりの日永かな>等々、無理をすることなく一句ができていた。前書をつけなかったのは孫ではなく「赤子」というひとりの子どもとして詠みたい、読んでもらいたいという思いがあったからだ。
 赤ん坊の爪を切るには専用の爪切り鋏を使う。折から花時。生後間もない赤子の爪は桜の花びらのようにうすうすと透き通っていた。孫俳句にはとりわけ厳しかった仁喜先生から「季語の花時が効いている」という選後評も頂けた思い出の一句。今春その孫も十六歳となった。
       二〇〇七年作。『天空』所収。


五月


菖蒲湯に一日の家事終はりけり  

 「実感」ということを考えるとき思い出す一句である。「泉」に入会する以前、五年ほど綾部仁喜先生指導の俳句サークル「藍の会」に所属していた。原稿用紙に毎月十句ほどまとめ、先生の添削指導を受けるというのがサークルのならいでもあった。昭和六十年、そのサークルに入って、初めて先生に見て頂いた句稿の中の一句である。
まもなく先生から返却された句稿には朱筆で「この句稿の中では一番実感があります」と記されていた。もちろんこの評の裏には「他の句に比べて」という意味があってのこと。とはいえ、何の衒いもなく思ったままをストレートにまとめた一句に「実感」という評言が頂けたことに得も言われぬ喜びを感じた。ひとりの主婦としての平凡な感慨に共感して頂けたという思いがしたからである。
 以来、わが眼に見えるもの、わが耳に聞こえるもの、つまりわが五感が感じ取り、捉えたものをなによりも大事に、忠実に表現したいと思っている。どんなに拙くとも自身の言葉として発した一語には「実感」が伴う。読み手の心にも届く。作者と読者を繋ぐ実感に裏打ちされた一語。句稿を介してではあったが、先生との初めての出会いを通して教わったこととして忘れ難い。
       昭和六十年作。句集未収録。


六月

亡骸の父の頤梅雨満月

 父が亡くなったのは二〇〇七年(平成一九年)六月二十九日。今年は十七回忌である。生きていれば今年九十七歳を迎えているはずだ。黄疸症状が出て末期の胆管癌であることを知らされたのは亡くなる三か月前。三か月間、父を看取ってくれたのは弟妹である。私はといえば、ときたま父の顔を見に帰るだけ……。まことに親不孝な娘である。
 癌であったので少しは痩せていたものの、さほど衰えてもおらず亡くなったという現実が受けとめられなかった。ただ傍らには父が亡くなる三日前までつけていた日記、というか手帳が山のように残っていた。その日記が記されないままそこにあることが父の死を語っていた。
 今も実家には日記は残されたままあるはずだ。一七回忌の今年、父の命日にはせめて父の好きだった日本酒で家族と献杯をしようと思う。二〇〇七年作。『天空』所収。

七月


天上の仰がれてゐる蓮見かな

 平成十六年の夏、舟を仕立て手賀沼で蓮見をした折の句である。当時、この舟の手配を始め吟行の段どりをすべて整えてくださったのはきちせあやさんである。陸上での蓮見とは違って、舟に揺られながら群生した蓮のなかに分け入ってゆく水上での蓮見。蓮の思いがけない丈に圧倒されながら、蓮の花を真下から仰ぎ見る感覚はなんとも言い表わし難い。視界はといえば真っ青な空のみ。蓮の花と葉と空と。これ以外のものが一切ない空間で蓮はまた別の姿を見せてくれたのだった。この時、「青天」や「大空」ではなく、「天上」という一語を授かったのもふと「蓮華往生」などという仏教用語が頭を過ぎったからかもしれない。他にも<水よりも低きに坐り蓮見舟><蓮剪つて蓮の全長したたらす>などと詠んだ。「蓮剪つて」は原句の「蓮剪り蓮の丈をしたたらす」を仁喜先生が添削して下さったもの。「蓮剪つて」の方が心地よい、「丈」はもの足りないとも助言して下さった。このように俳句を作っては病室で先生に指導を受けていた時間、あやさんはじめ、仲間と吟行に繰り出していた時代が懐かしい。 
            『天空』所収

八月

今朝秋の山風がくる鯉の髭 

 初出は総合誌「俳句研究」平成十七年十一月号である。残念ながら同誌は休刊となってしまったが、当時は毎号「3か月連続競詠」という企画があった。そのページに十月号から十二月号まで作品発表の機会を頂いたのである。競詠のお相手は恐れ多くも大峯あきら氏。大峯氏の名前を聞いただけで緊張した。しかも毎月二十句、計六十句の発表である。なにしろふだんは毎月小誌に投句する十句をまとめる程度しか作っていないのだから、甚だ難行でもあった。この依頼を受けてから三か月間は車で五分ほどのところにある片倉城址公園によく出かけた。ひとり吟行である。通いなれた場所でもあり、「鯉」は私の友人のようなもの。なかなか一句には仕立て難いが困ったときは助けてくれる有難い存在である。この公園は城跡を囲むように雑木林があり、山水も湧いている。そのせいか市街地より幾分か涼しい。よく知られた<秋来ぬと目にはさやかに見えねども>ではないが、風はまさに「今朝秋」に違わぬものであった。「今朝秋の山風がくる」、これはそのときの印象をストレートに述べただけのフレーズ。下五の「鯉」もまた平凡な素材だが、「髭」というモノを提示することで、パターン化を免れたか、と思っている。      『天空』所収

九月


虫籠の戸の開いてゐる朝の雨 

 この虫籠、どこに置かれていてもいいと思う。その辺りの事情をどう読むか、は読み手の自由である。いったん作者の手を離れた句は作者のものであって作者のものではない。そういう観点においても自解はなるべく避けたい、と常々思っているのだが……。といっても自解そのものを否定するつもりはない。自解からその人となりを知る場合もあるのだから。そういう自解となっていることが筆者の願望でもある。
 この虫籠、草っぱらに置かれたままで虫籠には虫もいない。空っぽだった。誰かが置き忘れていったのか、捨てられたのかわからない。誰かの所有していたはずの虫籠が雨の中で濡れている。ただそれだけのことだ。一切のことを捨象し、ものに焦点を定め描写する手法が俳句の醍醐味であると思っている。この一句が手法に叶っているかどうかはともかく、ただひとつのもの=虫籠を提示していることだけは確かである。とるに足らぬささやかなことではあるが、虫籠の戸の向こうに多様な広がりをもつ世界が広がっているとしたら嬉しい。俳句でしか言えぬことを虫籠の存在が示してくれている。今はそんな気がしている。
二〇〇五年作。『天空』所収

十月


木の国の木の香なりけり茸飯 

香り松茸、味占地とはいうが、「茸飯」はやはり「松茸」に限る。とはいえどかなり高価なものだからそうやすやすとは手に入らない代物になってしまった。という訳でこの頃のわが家の「茸飯」といえばもっぱら占地である。
 ただ掲出句の「木の国の木の香なりけり」と詠んだ心中にあるのはやはり松茸である。小学生の頃だったか、クラスをあげて茸狩りに行った覚えがある。山師の方に茸の種類や茸の生えそうな場所を教えてもらった。そして松茸のありかはそう簡単には教えてもらえないこともそのとき知った。だが松茸はかなり豊富だったはずである。というのも、子供ながらに炭火であぶった松茸を裂いては生醤油かなにかでふんだんに食べた記憶があるからだ。今思えばずいぶん贅沢なことである。掲出句が偶然ながら、「き」の頭韻を踏んでいるのも木の国に生れ育った、幼時の頃の原体験がどこかに働いているのかもしれない。
 二〇〇七年作。『天空』所収。

十一月

白菜を干したる中華料理店

 仁喜門に入って九年目、「この作者、何でもないところで俳句が作れるようになってきている」という仁喜評を頂いた句である。このコーナーの自解に採り上げる句はあまり苦労なく、即座に成った句が多い。私の場合、俳句を作ろうと思って身構えるとできない。かと言って、俳句とまったく無縁の生活のなかでもできない。だが考えてみればこの頃は、和知喜八門の友人と共に週に一度は必ず吟行に出かけていた頃。常に俳句モードに近い状態であったことだけは確かである。
 掲出句はどういうときであったか。きっかけとなったそのときの気分は思い出せないが、場所とその時の光景だけは鮮明に思い出すことができる。最寄り駅でもあるJR横浜線の片倉駅から五分ほど歩いたところに小さな拉麺店があった。その店に入ったことはない。ある日、その店先に何株かの白菜が干されていたのを見かけた。大方キムチにでもするのだろう。店の前を通ることは何度かあったが白菜を干している景は初めて見た。初めて目にした光景だけに私の心も一瞬動いたに違いない。見たままの一句はまるで呟きにも近い。今はその拉麺店もない。いつ頃閉店したのかも知らない。仮にこの句を作っていなかったら、私の記憶にも残らなかったであろう当時の光景が蘇る。
 こうなると季語とともにある、日常の暮らしの断片が限りなく愛おしいものに思えてくる。
        一九九四年作。『跣足』所収。

十二月

鳥を見にゆく歳晩の列車かな  

 『冬泉』には「季語や季語以外の鳥が頻出する」という指摘をして下さったのは櫂未知子さん。そのように言われて初めて気がついた。確かに多い。鴉、鷗、翡翠、海鳥、鵙、鳶、鶺鴒、青鷺、鳰、鶴、白鷺、白鳥、夏雲雀、三十三才、寒雁、鵯、鷭の子、行々子、帰燕、鵜、鳩、鶏などざっと二十二種類ほど。意外だったのは日常よく見かける雀や四十雀、鶯などはない。詠んではいるが句集にまとめる段階で落としたのだろう。
 鳥の名前を即座に言い当てる人に憧れる。そんな気分も手伝って地元の探鳥会に入会した。二百名ほどが所属する会にはやはり達人がいる。大鷹、花鶏、エナガ、田雲雀等々。これらの鳥が地元で見られることも知った。だが、相変わらず鳥の名前は覚えられないままである。(会に名前を連ねているだけで探鳥会に参加するのは年に一度ほどなのだから当たり前である)。
 掲出句は二〇一六年のまさに歳晩、友人と宮城県の伊豆沼へ出かけた折の句。伊豆沼は渡り鳥、ことにマガンの越冬地として知られる。ピーク時には十二万羽ぐらいのマガンが飛来するとか。早朝、日の出とともに餌場を求めて近隣の田んぼへ飛び立つ雁の姿に圧倒された。初出は「WEP俳句通信」(Vol96)。『冬泉』所収。